世の中にはいろんな補正がある。制御の世界でもよくある。テーブル使ったり、一時期はファジーなんかも流行りました。
最近気になっているのは、思い出補正とか、思い込み補正とか、妄想補正とか、勘違い補正とか、つまるところの、「人は自分の見たいものしか見ない」系の補正と、昔は良かった、自分はもっと能力が高い、今まで誰も傷つけたことはない、という、「都合よく記憶を改ざん」系の補正。
どちらも、目的は一緒で、自分が楽したいから、とか、自分の悪いところは見たくないから、という、自己防衛機能の一つとしての補正機能。よほど気をつけない限りは、勝手に無自覚に、そして自動的に発動する。回避する方法は、まー、いろいろあんでしょうけど、基本は、いろいろと疑ってみる、というところでしょうか。
さて。
ここに、上記補正能力マックスの人が居たとしましょう。彼は、どういう選択をし、どういう人間になっていくか、というと、自分の言う事が正しく、自分の欠点には気づかず、故に、どこまでも知識も技能も低く、でありながら、そんな自分に最大補正をかけるためには、他人は等しく全て自分には及ばず、聞く耳を持たず、また、補正をかける根拠として、自分だけは宇宙で一番すごい、とか厄介な方のプライドを身に着ける、ということになるんだろうなー、と思います。なんというか、あまりお近づきになりたくないタイプの人です。
しかし。本人は至って幸せです。そりゃそうです。あらゆる現象を自分の都合が良いように解釈し、嫌な事はきれいさっぱり忘れ、人を傷つけることはあっても、自分が傷つくことはない、というほとんどチートに近い状態です。魍魎の函で、最後に函を持ち去った人と同じですね。アレです。中学二年生的な表現をすると、最強オブ最強です。フォルティッシッシモって感じです。
そこでふと考えるのです。果たして、どちらが人として幸せなのだろうか、と。他人などかまわず、ただひたすら、自分を愛し続けることは、私には到底受け入れられない行動基準ですが、でも、そこまで割り切れれば、きっとバラ色の世界が待っているような気もするのです。酒とバラの日々がそこには待っているはず。でも、きっとそれは幻想。でも、幻想に浸りきってしまえば、それは現実、と。
あちら側、人でなしが見る世界は、きっと楽しいに違いありません。でも、結局、私はいつも、そう思いながら一歩が踏み出せず、こちら側の世界、一般人が、悩んだり困ったり諦めたりそれでも頑張ったりする世界に留まっています。結局、私は、そんなに補正が効かない世の中で、適度な補正を効かせながら、適度に軋みながら生きていくしか、それぐらいしか、知らないんですよね。うん。仕方ないよね。
という空想。ナイーブな中学生が思いそうな妄想で、中身は何もないけど、そういう空想は、脳を休めるのに結構効果的だと思う。思う。